初めての登山
50歳になって初めて登山をしました

下記の文章は、私の初めての登山体験と八ケ岳・阿弥陀の南稜についての思い出について書いたものを
平成5年『岳人』2月号に寄稿したものです。
 






私の初めての山行は二月厳冬期の阿弥陀岳の南稜だった。登山どころか、ハイキングすら殆どやったことがない。身体を動かすことはといえば、たまに家族と行く夏の海水浴か、正月のスキーぐらいのもので、年齢ももうすぐ五十歳になろうとしていた。

なぜ冬山からかといえば、理由は簡単で、山を知らなかったからだ。それに、山男であった親友の突然の死が、待ったなしに私を山に駆り立てたのだ。

あいつとは人里離れた海に近い部屋を借りて、一緒に受験勉強をしたこともあったし、また一緒に上京して近くに下宿をしていた。

あいつは勉強の方でも大変な努力家であったが、中学、高校時代から山にとり憑かれていて、交通の便が悪かった当時に、福岡から阿蘇山の岩場まで、なんと五十回以上も通ったという。

「君を雪の冬山に立たせたい」とよく言っていたが、その頃私にはまったく興味のない話であった。

それが、どうしたことか、あいつの死に顔を見た途端、どうしても山へ行かなければという気になってしまった。

半可通の私がゲーテやショーペンハウエルについて語ると、彼はヒマラヤへの夢を語っていた。

昭和二十年代の、まだ戦後の日本ではヒマラヤへ行くなどということは現実性の少ない、本当に夢のような話に思えた時代であった。

社会人になり家庭を持ってからあいつは、おそらく周囲の反対があったのだろう、山から離れているようだった。そのせいか、たまに会った時には、かつて感じさせた牛のような迫力を欠いているように思えた。

山での滑落や落石、雪崩の危険をものともしなかったというあいつが、あろうことか、新宿駅の階段で足を滑らせて、頭を強く打ち落命してしまった。

                  ***

山岳雑誌の冬山講習会の欄に「初心者歓迎」と書いてあったので、その気になって堀田弘司氏主催の「中高年者と女性のための冬山教室」に飛び込んだ。

何しろ初めてのことであるから、ピッケル、アイゼンは勿論のこと、靴からウェアにいたるまでなにもかも、真つ更という出で立ちで参加した。

無知とは恐ろしいもので、山慣れしている様子のパートナーたちの後について、意気揚々と阿弥陀岳を目指して腰までの深雪の山に入って行った。

その時までは、堀田氏は私が生まれて初めての登山をしょうとしているなどとは思っていなかったという。あとで「どうしてこのような無謀な参加をしたのか」と文句を言われることになるのだが、「初心者歓迎」を鵜呑みにして来たのだから、とやかく言われるのは心外というものだ。

それにしても、運動不足による贅肉のかたまりを抱えた初心者にとって、深雪の雪山は想像を絶する苦行となった。

わずか四人のパーティーによるラッセルにあがき、立場山の登りでは精根を使い果した思いがした。

それでも,なんとか尾根にたどりつき、これも初めてのテントに転がりこんだ。

今にして思えばそれは冬用のテントではなくツエルトであった。

その夜は好天のせいもあって、かなり冷え込み、寒暖計は零下二十度を指していた。新品のシェラフにもぐりこんだものの、あまりの寒さに一晩中まんじりともすることが出来なかった。もっとも翌日、堀田氏から、私はいびきをかいてよく寝ていたと言われたが、とても信じられなかった。

阿弥陀岳南稜のP3のガリーは氷で覆われていた。もちろん、ザイルでの確保はしてもらっているのだが、アイゼンの信頼性が分からず、足下が谷底深く切り立っていて、生きた心地がしなかった。頂上がどうなっていたのか、とんと記憶がない。

皆に遅れまいと、深い雪を蹴立てて、阿弥陀のコルから行者小屋へ下る斜面をもがいていたところ、雪に隠れていた岩にアイゼンを引っ掛けて、あっという間に頭から宙を舞ってしまった。

幸いというか、さすがにガイドの堀田氏が、アンザイレンしていたザイルをピッケルで見事に止めてくれたので、私は二十メートルほどの滑落ですみ、事なきを得た。

動転して、ただ手足をばたつかせていたところ、近くにいたよそのパーティーの人から大声で「早く足元を踏み固めろ」と怒鳴られて、やっと今おかれている自分の状況が理解出来、はるか下方にある、黒々とした樹林帯が目に入った。

平坦な雪原を歩く時にも靴を踏み込む角度が悪かったせいか、何度も何度もよく転んだ。当時八十キロ以上もあった自分の体重をもてあましているうえに、初めての重いザックを背負っていたのだからたまらない、立ちあがるのにひどく体力を消耗した。

ふらふらしている私を叱咤激励するつもりだったのだろうが、堀田氏から言われた「根性がない」とか「中高年者には甘えがあるから、いやになる」という言葉は私の胸にぐさっときた。今までに言われたことのない言葉だった。

だが、私を本気になって山登りをする気にさせてくれたのは、堀田氏のあの言葉だと、今では感謝している。

下山して家で体重を量ったら九キロも痩せていた。

銀マットをザックの雨蓋の上に付けていたのだが、学林からの林の中でのアプローチで、さんざん木の枝にひっかけたためにぼろぼろになってしまった。それは今でも記念にしまっている。無我夢中になって、枝とまともに力比べをやっていたのだ。

                 ***

山岳会に入り、阿弥陀岳南稜の例会山行には喜んで参加させてもらった。阿弥陀岳には七年前の鮮烈な思い出がある。そしてあいつもそこにいるような気がする。
ラッセルは今回も大変だったが、今度は体重は減っていなかった。

われわれのラッセルの後ばかりをついて来ていたよそのパーティーの連中が休んでいる横を通りかかった時、そのうちの一人が、聞こえよがしに「年寄りにラッセルはこたえる」と言っていたので、思わず近付いて、「あんたは幾つだ」と聞いてやったら、「五十だ」と誇らしげに答えた。

いやみだとは思ったが、「私は五十七だ」と言ってやった。あの時の堀田氏の言葉をそのままぶつけてやりたかったが、そこまでは出来なかった。


( 堀田氏は本年春先に山でガイドをしておられて滑落死されたと聞きました。
三つ峠で随分お世話になったのが今となっては懐かしい思い出となりました。
ご冥福をお祈り致します)


注:あいつとは今は亡き城戸剛君のことです。









 「岳人」平成5年2月号






三峰山岳会の仲間と阿弥陀岳P3を望む





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